カーンバーグ

米国自我心理学と、英国対象関係論を統合した大家

 カーンバーグ(Otto Kernberg)は、ヴィーンに生まれ、チリに移住してチリ大学精神医学部で学び、後にアメリカに転じてジョーンズ・ホプキンズ病院、メニンガー記念病院院長などを経て、コーネル大学医学部で教鞭を取った。1960年代からこの当時の難題であった境界例の理論構築に努め、その理論構築において、カーンバーグは、英国対象関係論の図式を大幅に採用し、「米国自我心理学と、英国対象関係論を統合した」という評価を受けるようになった。

 ただし、カーンバーグは、クラインに見られるような、一種の擬人化された説明方法を嫌った。「乳児は、悪しき乳房の攻撃に対して、「かみつく・飲み干す」などの方法で対抗していると空想する」と言ってしまうと、あたかも、乳児が自分を母親と区別される一つの独立した主体として認識できるかのような説明になってしまう。

乳児は情緒体験の類似性によって心的構造が形作られる

 これに対して、カーンバーグは、生後2ヶ月間では乳幼児の発達段階の第1期であり、その時期には乳幼児は母親と自分とのあいだの区別が付かない自閉的な一体化の中にあると考えた。
 2番目の発達段階を構想するにあたって、カーンバーグは、このような自他未分化状態にある乳児が、「自分が「よい乳房」と一体化したり「悪い乳房」と戦ったりしている」というような、すでに自分の存在を前提とした空想によって心的構造を形成していくのではないと考えた。「情緒体験の類似性」によって、よいもの/悪いものの識別が起こる、とした。乳児対母親という対立項ではなく、対象イメージ・自己イメージ・特定の情緒体験という三つ組によって心的構造の形成がなされると考えた。最初は自他がごっちゃで、「よい自分-よい対象/悪い自分‐悪い対象」と融合してはいるが、とにかく「よいもの/悪いもの」の区分が生じるとした。この第2段階での発達が失敗すれば、後年、統合失調症などの重篤な精神障害のリスクが生じるとした。この時期は、クラインが指摘した分裂などの原始的な心理的メカニズムが主役をなす。

ボーダーラインパーソナリティー構造と神経症的パーソナリティー構造

 カーンバーグの大きな特徴は、防衛のための心理的操作を、この時期の分裂を中心とする原始的な防衛機制と、この時期以降の抑圧などの高度な防衛機制の二つのレベルに二分し、いずれのレベルが主要に用いられているかによって、パーソナリティー障害を重症度で区分しようとしたことである。前者のレベルを「ボーダーラインパーソナリティー構造」これに対して、後者のレベルを「神経症的パーソナリティー構造」とした。
 次の第3段階は、生後6月から10ヶ月のあいだに起こるもので、「自分とは別の存在である母親」が認識され、それによって自己と外部との境界が確立される。カーンバーグは、この段階の課題を十分にクリアできず、第2段階での防衛機制にまま頼ってしまうのが境界性パーソナリティ障害であるとした。

自他の分化が確立していない境界性パーソナリティー障害

 境界例パーソナリティー障害は、「完全な良いもの」と「完全な悪いもの」という現実にはあり得ない対人評価をする。このため、彼らは他人をいったん気に入ると、その人物がありとあらゆる望ましい価値の供給者であるかのような非現実的な(対象の中に少しでもマイナスのものを発見することは耐えられない。自分も好意の対象と同じく「白に属する」と位置づけて、「相手のある面は好きだが別の面は嫌いだ」という葛藤から自分を守る)原始的理想化を行う。相手に対して好意を抱いている時には、相手との一体感のうちにあり、自分が万事において優れているかのような万能感を感じる。これに対し、敵視された人物に対しては、あたかも相手が悪の権化であるかのような価値切り下げを行う。このような「まっ白が、まっ黒か」という非現実的な対人評価をしているため、他者に対する見方は、全面的賛美から、全面的否定へと極端から極端へと揺れ動く。
 しかし、彼らはこのように評価が自分の中で転倒することに気がついても、自分の中のそのような転倒自体に関しては、さほど心を動かされない。これは、彼らが否認という機制を用いており、自分自身の矛盾を見ないようにしているからである。
 また、カーンバーグは、境界性パーソナリティー障害が行う投影は、特に発達初期に見られる「投影同一化」という機制であるとする。つまり、自分の中の見たくない否定的なものを他人に帰属させるが、それによって自分の中の衝動が軽くなるという訳ではなく、衝動の強さがそのまま残ってしまい、かつ、その衝動を投影した相手に対する恐怖感が続き、「そのような投影を正当化するようなネガティブな行動」を相手から引き出そうと試みるという形で、危険とみなされる他者をコントロールしようとする要求が続く。
 神経症的パーソナリティー構造と境界例的パーソナリティー構造においては、「自分と自分でないものとを区別する」「思考・想像などが、自分の外部にあるものではなく、自分の内部のものであるという区別がつく」「自分の行動が社会的規範から見ればどう見えるのか、ということが判断できる」などの現実検討能力が保たれている。だが、神経症的パーソナリティー構造がこの現実性を堅持できるのに対し、境界性パーソナリティー障害は、退行すると現実検討能力が損なわれ、妄想的判断などの精神病的現象が現れる。
 これらの問題の結果、境界線パーソナリティー障害は同一性拡散の状態を呈する。彼らの自己像は漠然としており、将来性への展望にも欠いている。彼らと話していると、自分に対するコメントや、他人に対するコメントが、通常の成人にしては余りにも貧困であり、奇異な感じを抱かせることが多い。彼らは、情報の統合力を欠き、空虚感の中にいることが多い。

境界性パーソナリティー障害よりは高次な自己愛性パーソナリティー障害

 更に詳しく述べると、カーンバーグは、ボーダーラインパーソナリティー構造を高次ボーダーラインパーソナリティー構造と低次ボーダーラインパーソナリティー構造の2層に分けた。そして、自己愛性パーソナリティ障害はより軽度な構造を高次ボーダーラインパーソナリティー構造に属し、境界性パーソナリティー障害は後者のレベルにあるとした。
 自己愛性パーソナリティ障害は、現実的な自己イメージ・理想的な自己イメージ・理想的な対象という内的構造が十分に分化されず、理想的な自己イメージと現実的な自己イメージが分離せず、誇大な自己イメージが生じている。つまり、「なりたい私」と「現実の私」との区別がつかず、自分がもうすでに素晴らしくなっているという混同を来している人たちである(理想化された対象と自分を混同するという境界性パーソナリティ障害の防衛方法とも通じる)。「否定的な自己イメージ」はまったく自らの目に入らない。
 自我と超自我のあいだにも明確な区別が成立していないために、自己批判能力を欠き、反省の感情は欠落しており、対象全般が見下されるに至っている。
 カーンバーグは自己愛性パーソナリティ障害は、第3段階の構造へと退行する場合もあるとする。
 発達の第4段階は、生後3年目後半から従来のエディプス期と呼ばれていた段階にかかるものであり(メラニー・クラインが「抑うつ的ポジション」と位置づけた時期にほぼ相当)、この時期の障害に固着に対応するのは、いわゆる神経症や、より軽いパーソナリティ障害である。
 この時期には、ここまで述べられてきたような内的対象が統合されて、フロイトが超自我と呼んだ内的部分が形成され、それに対して、それに応じて、心理的防衛機制としては抑圧という手段が本質となる。超自我は、初期の悪い対象の取り入れに伴う過度に厳しい性格が次第に和らいでゆく。

神経症的パーソナリティー構造

 
 超自我形成は、最初は一般的な道徳や行動規範のように抽象化されておらず、「友達をいじめたら、パパに怒鳴られる」ところを想像するなど、親の個人的なイメージに基づいている。また、そこからくる感情は原始的で攻撃的であり、完全さをサディスティックに要求するものである。このような超自我が、「友達に親切にしている自分はいい子だ」というように、行動のオリエンテーションを与え、自分を肯定する根拠を与えさえする-このようなプロセスが行われるのが第5段階であり、その通過が失敗した場合には、自我は過剰に攻撃的となる。このような失敗による神経症的パーソナリティー構造の中の一つとして、「抑うつ/マゾヒスティック・パーソナリティ」を見てみよう。
 カーンバーグは、ボーダーラインレベルの一つとして「 サド・マゾヒスティックパーソナリティー障害」を挙げたが、より軽度のものとして抑うつ/マゾヒスティックパーソナリティー障害を挙げた。
 これは性的マゾヒズムとは必ずしも結びつくものではなく、あったとしても、マスターベーションの際の単なる空想活動や、自他を傷つけないお遊び感覚で決まったシナリオのもとに性的行動の添え物にとどまる。むしろ、自罰的傾向の強さが際立っており、過剰な自己批判は、超自我形成の最終段階での失敗に基づくとみなされる。
 このようなプロセスを経て、パーソナリティは成熟を獲得し、内界は安定し、外界に対する一貫性ある見方が可能になる、とカーンバーグは主張した。

境界性パーソナリティ障害のメカニズム説明が評価された

 カーンバーグの説明は、きわめて論理的な印象を与えるものであり、境界性パーソナリティ障害のメカニズムや精神分析的アプローチの理論的根拠を与えるものとして、1970年代には、絶大な関心を集めるに至った。
 ボーダーラインパーソナリティ障害は、1970年代には、精神医学のホットトピックスであり、カーンバーグは数々の賞を受賞し、国際精神分析学会の副会長にも就任するに至った。これが、米国精神分析の絶頂期だったと言えるかもしれない。