クライン

 メラニー・クラインは、フロイトの本能説を土台にこう主張する。そもそも誕生時から、人間は「生の本能」と「死の本能」を遺伝的に有している。死の本能とは自他に対する攻撃性となってあらわれる。乳児が持つこの生来の攻撃性は、乳児の無意識的な幻想の中で表現される。
 
 乳児は現実を検討する能力をまだ持っていないので、自ら幻想したことを本当に起こっている事として体験する。乳児は、空腹であったり、何らかの苦痛を感じていたりするとき、外部の邪悪なものが彼を攻撃しているのだ、という幻想を抱く。

 かつ、乳児が空想する「外界からの攻撃」とは非現実的に誇大なものである。それは、乳児を食いつくし、破壊してしまうものと空想される(そして、それに対して自分もまた、噛む、呑み込む、糞尿でぐちゃぐちゃにする、などの攻撃によって反撃している、と空想する。クラインは、乳児の攻撃性は原始的で強烈なものであると考える。それはまだマイルドになっておらず、例えば大人の遠回しの皮肉のような洗練された攻撃ではない。) したがって、この時期に由来する恐怖感は、通常の成人が感じるような、自分がなんらかの損害を被る、というようなレベルの恐怖ではない。自己の存在が破壊されてしまう-端的に死-という絶後の恐怖なのである。このような心の発達段階をクラインは分裂-妄想ポジションと呼ぶ。

妄想-分裂ポジション

 さて、私達はまだ、クラインの早期発達論の半分しか見ていない。先に、乳児が絶大な恐怖を体験しているという一面を指摘したが、他方では、乳児は、満足感を感じているときには、それもやはり外にある何か良いものが彼に心地よさをもたらしている、という幻想のもとにある。つまり、乳児は、満足を感じている時の世界と不満を感じている時の世界の落差が極端なのだ。 どぎついコントラストをなす二元論的世界に生きているのである。

 このような世界の中で、乳児は恐怖に対抗するために「投影」と呼ばれる心理的操作を用いる。既に述べた通り、乳児は、例えば空腹の苦痛を「攻撃される」というように、主観的体験があたかも外部の何者かによって引き起こされているかのような幻想の中にいる。これは、実は、乳児自身の中にある攻撃性を「外部にあるもの」として捉えているのである。このように、自分の心の中にあるものをを、自分の外部に属するものとして捉える心理機制を「投影」と呼ぶ。

 乳児にとって、最重要な現実とは母親の乳房であり、これこそが乳児の投影の対象となる。乳児が心地よさと満足に浸っている時、乳児は「投影」の機制によって、それら肯定的な体験は、全て乳房がもたらしたものだ、と幻想する。乳房はあらゆる良きものをもたらす、肯定的なものの源泉であり、完全な良いものである、と感じられる。この空想的な乳房をクラインは「良い乳房」と呼ぶ。逆に、乳児が空腹などのなんらかの不快を感じている時、それらは全て乳房からの攻撃であると、幻想される。その時、乳房は乳児自身の攻撃性を投影され、あらゆる苦痛をもたらす、敵意に満ちた邪悪そのものと幻想される。この空想上の乳房を「悪い乳房」という。乳児は因果関係を的確に把握できないため、乳児はそれを同じ乳房として認識することができない。乳児には「良い乳房」と「悪い乳房」の全く異なる二つの乳房がある、と空想される。「良い乳房」から素晴らしいものを与えられそれに満足している良い世界と、「悪い乳房」に攻撃を加えられ、自分もそれに対して原始的な攻撃を返している地獄のような世界-。

 白と黒、明と暗。それらは、全く異なる存在であると幻想されなければならない。何故ならば、初期乳児にとっての世界は、悪しきものが攻撃を加え、浸食しようとする不安な世界であり、悪しき否定的なものの力によってに世界は腐りだめになり、絶滅しかねないという脅威に晒されているのだ。そんななかで、「良きもの」があり、それは何の欠点もなく、完全で万能で絶対に頼れるものでなければならない。そのためには、「良きもの」は、悪しきものからは完全に隔離されていなければならないからである(そのような完全なものに自分が一致している、と幻想することによって破滅の恐怖が和らぐ)。このように、あらゆる悪いことは全て「悪い乳房」から由来していると幻想され、「良きもの」に何らの影も見ようとしないで理想化することによって、恐怖を紛らわせる防衛方法をクラインは「分裂」という名で呼んだ。このような「完全な善」と「完全な悪」の両極に分裂している世界が乳児の世界なのである。

「分裂」という防衛機制

 以上が、クラインが心的発達の最初の段階とした妄想-分裂的ポジションである。さて、クラインは、人間の体験する様々な感情というものは、各発達段階において獲得されるものであると考える。つまり、それぞれの感情は、特定の発達段階に非常に優勢に体験される情動に起源を持つ。どの発達段階の特徴がその人のパーソナリティーに残っているかによって、その人がどのような情動を主に感じるのかが決まる。では、妄想-分裂ポジションに特徴的な情緒を見てみよう。

 不安に抗するために、「良い乳房」はますます完全なあらゆる喜びの源泉としてその良さを強調されなければならなくなる。これを「理想化」の機制と呼ぶ。乳児はそのような幻想的な乳房と自らが一体であると感じ、一種の万能感にひたることもある。それによって一切の危険を無視することができ、一時的に不安から逃れることができる。これが否認という防衛方法である。この時、「有頂天」と呼びうる原始的な高揚感が体験されることもある。

 「理想化」においては、理想化された「良い乳房」と自らを一体と考えるわけであるから、その時は、乳児は自分を「良い」存在である、と感じることができる。これは、自分を肯定的な存在として捉える非常に重要な体験となる。「悪しき世界と悪しき自分」と「信頼できる世界と良い自分」という両極端の行ったり来たりの中で、次第に後者の体験が優勢になってゆくことは、ややもすれば、悪しきものに浸されかねない世界の中で、肯定的な体験が基本になり、世界に対する安全感・信頼感が確固としたものになってゆく。やがて、乳児が自分の存在に安心感を持ち、不安が軽くなると、「投影」「分裂」といった防衛機制は不要なものとなってゆき、現実検討が可能になる。
  

抑鬱ポジション

 この妄想-分裂ポジションから、乳児の心性は次の発達段階に発達してゆく。それは、全く別物の「良い乳房」と「悪い乳房」が対立する絶対善と絶対悪の世界を脱却して、現実検討が可能になった乳児が「時には良く、時には悪く、善悪両面を備えた存在」を認識できるようになる段階である。この時、乳児は「良い乳房」と「悪い乳房」の二つの乳房があるのではなく、ただ一つの乳房があり、ある時は欲求を満たしてくれ、ある時は欲求を満たしてくれない、というものなのた、という現実を認識するのである。(良い・悪いの両面を備えた存在としての対象をクラインは「全体対象」と呼ぶ。つまり、そこでは、他者が自分と同じような矛盾と葛藤を抱えた丸ごとの人格として理解されている。これに対して、妄想-分裂ポジションの「良い乳房」「悪い乳房」は「部分対象」と呼ばれる。それらは、人格的存在ではなく、単に自分にとって良いものか悪いものか、という視点で欲望されたり拒絶されたりする存在に過ぎない)。

 そして、同時に、乳児は、自分がこれまで空想の中で攻撃を加えていた「悪い乳房」が「良い乳房」と同じものであることを知った時に、自分にとってかけがえのないものに自分が破壊行為を加えた、ということを認識するのである。これは、まさに、自分の中に「悪」が存在する、という認識なのである。乳児は自分が乳房を破壊してしまった、と想像し、自責の念を感ずる。(自分を批判しうる、ということはある強さがなければ不可能なことである)そして、破壊した乳房を再建したい、と感ずる。この体験をクラインは「贖い」と呼ぶ。これは、他者に対する共感の基礎になるものである。これが分裂-妄想ポジションに続く「抑鬱ポジション」である。