ピネル

穏健派の革命精神を受け継ぐ啓蒙主義者

 ピネル(1745~1826)は1745年、南フランスのサン・タンドレー村に生れた。17歳の年にルソーの『社会契約論』が出版されて大いに影響を受けるという革命の時代を生きた精神科医である。ピネルは若い時に王立植物園で動植物分類の研究をした経験があり、そこでリンネの植物学に接した。当時はリンネの植物分類は最先端科学であり、多くの学者は彼らの研究分野が最終的にリンネの植物分類のような層構造によって体系化されることを夢見た。後年のピネルはこの分類学を念頭に置いた精神疾患の分類を提唱することになる。

 また、ピネルは当時「イデオローグ」と呼ばれていたグループに出入りしていた。ヴォルテールに影響を受けた革命側の穏健派知識人のグループである。ロベスピエール一派とフランス革命の主導権争いをして敗れたジロンド党に共鳴していた。イデオローグ達は、啓蒙主義的な主張を持ち、ジロンド党の盛衰とは別に教育制度改革に重要な役割を演じ続けた。

 ピネルは、一時期、革命政府の衛生行政に関わっていたため、1793ルイ16世とマリー・アントワネット処刑の場に立ち会い、放心状態になるほどのショックを受け、恐怖政治を「行き過ぎだ」と批判する手紙を弟に送っている。この年、ピネルはビセートル収容院の医長に就任、穏健派の革命精神を受け継ぐ啓蒙主義者ピネルの面目躍如たる精神医学上の革命を行う。

鎖につながれていた精神病者たちを解放

 ピネルの時代の精神鎖につながれていた精神病者たちを解放病院とはどのような場所だったのであろうか。
 それは数千人規模の巨大収容所であった。ピネルが病院長として赴任した病院もほとんど小村といえる規模だった。そこには、社会から隔離しておかなければならないと思われていた者たちが雑多に積め込まれていた。精神障害者だけではない。泥棒や、殺人犯までいた。さらに、権力の座にいるものが次々に変わったピネルの生きた革命の時代には、庇護を求めて精神障害を装って庇護を求めて政治活動家や司祭までが飛び込んでくる亡命地ですらあった(ピネルが、市民革命側を支持していたが、旧体制側からの庇護を求めて来る者に対しても、立場に相違なくかくまった。このことが雑誌で暴露され、ピネル自身が暴徒に襲われて危ない目に遭いかけたこともあったという。

 それだけではない。「精神病院には、体制に反対した活動家が精神障害の診断のもとに不当に鎖につながれている」と武装した革命勢力に襲撃されることすらあったのである。

 このような時代に、ピネルは「精神障害者は処罰の対象ではなく治療の対象である」と宣言し、鎖につながれていた精神病者たちを解放し、彼らを治療の対象として人道的に処遇すると大改革を行った。

研究業績

 革命の精神を受け継ぐ啓蒙主義者ピネルの面目躍如たる精神保健面での業績であった。

 次の勤務地であったサルペトリエール収容院でも人道的精神医療に努め、その後アカデミズムに転じ、パリ大学の教授となる。ナポレオンの侍医も勤めるなど、最高の名誉に輝く存在となった。

 ピネルは1825年に刊行された『医学・外科学百科事典』で精神医学の分野を指導した。リンネの影響を継いでいたピネルは、精神疾患の分類を志し、詳細な症状記述につとめ、近代精神医学の父の名にふさわしい研究業績を残した。ピネルは今日の分類に対応させれば、統合失調症・そううつ病・認知症・知的障害の4大カテゴリーからなる体系を構想した。この最初のカテゴリーに、反社会性パーソナリティー障害に該当する記述があるとミロンは指摘している。これは、知的な障害がなく、自分の行動の問題性を理解しているにもかかわらず、自他を害する行動に走るとされており、ピネルはこれにサイコパスという歴史的な名称を与えた。