フロム

受容的構え

 ミロンは、Man for himself(邦訳名『人間における自由』)における性格類型の中の一つとして位置づけられている「受容的構え」を依存性パーソナリティーに近接したものとしてとらえているが、正鵠を得ている。フロムのこの類型は、病的なレベルからノーマルなレベルまで包括する依存性傾向のまさにエッセンスをとらえている。

 「受容的構え」類型の根本規定は、「あらゆる善の源泉は、自分の外にあり、それを獲得する唯一の方法は外部にある源泉からそれを『受け取ること』である、という基本的な世界観を持っていること、ということである。依存性パーソナリティーの基本特徴である「他人の方が自分よりも優れている」という前提を持っている、という点と共通するところがあるものの、上記の規定はフロム独自のものである。にも関わらず、そこから導き出される諸傾向は我々がここまで見てきた依存性パーソナリティーとほとんど重なり合うものである。

 すなわち、フロムによれば、「受容的構え」類型は、「努力せずに、他人の指示を仰ごうとする」「重要人物が自分に対して遠ざかるろうすることにきわめて敏感」「そのような不安が強く、それに対処するために忠誠を尽くす」「ノーが言えず、誰に対しても「イエス』と答えようとして、結果的に批判的能力がマヒする」「助けて貰わなければ何もできないと思っているので、一人になると、頼りなさやストレスを感じる」「楽天的で、親しげな人生観」などの特徴を持っているのである。

 また、フロムは、「受容的構え」類型の対人関係の基本的特徴をマゾヒズムと規定するが、これはミロンのあげるサブタイプの「協調的タイプ」「自分のないタイプ」の特徴と共通する。フロムは、マゾヒズムを「自分の個的自我を追い出し、自由から逃走し、自己自身を他人に付属させることによって安定感を得ようとすること」と定義する。

 だが、フロムの独自性は、社会のあり方がパーソナリティー形成において重要な役割を果たしている、という視点であろう。彼の言うマゾヒズムについても、それが「義務」「愛」と知って合理化されている場合には、そのような依存の形態は増加する。また、「受容的構え」類型は、社会が支配的グループと搾取されるグループに分かれている場合によく見られる、という。被支配グループは、自分の力で状況を変えられるという希望を放棄し、支配者を「恵んでくださる存在」として崇拝する。また、アメリカ社会が、表向きは、「受容的構え」類型を否定しながらも、細部においては、「便利器具が人間の努力を不要なものとしてくれる」「専門家が、どうすればよいのか教えてくれる」などの依存性をも織りまぜている、と指摘している。

 他の諸家があまり注目していないフロム独自の指摘は、一つは、このタイプにとっては愛とは、「愛すること」よりも「愛されること」ってあり、「愛されている」という思いにたやすく圧倒されて、愛の対象を選ぶのに無分別になりやすい、ということである。また、知識人の中にもこのようなタイプは存在し、もっぱら「観念の受容」に熱心であり、よい聴き手になるという。また、彼らの一方に残っている自由と独立への願望が、依存欲求との間で葛藤を生じることがある、というが、これはしばしば臨床的に依存的傾向が改善されるときにみられる現象である。

 また、それぞれの類型にプラス面とマイナス面がある、という知見も忘れてはならないものである。「受容的構え」類型については、「順応しやすい―原理原則がない」「魅力的―寄生的」「反応的―無意見、無性格」「容認的―受け身、主体性なし」「社会的適応―卑屈、自信欠如」「やさしい―感傷的」などの対比を記憶にとどめるべきであろう。

その他の類型

・搾取的構え 「良きものは外部にある」「自分では、何一つ生産することができない」という基本的仮定では受容的構えと共通している。ただし、それを獲得するために力と策略を用いるという戦略が異なっているのである。略奪的態度は行動のすべてに及んでいる。たとえば、愛情関係においても、「誰か他の人のものである相手をそこから盗み取る」という形にしか魅力を感じない。知的探究に関しても、他人の主張を、自分の発案であるがごとくに言い方だけを違えて繰り返したり、平気で剽窃を行ったりする。彼らにとっては自分で生み出し得るものよりも、他人から奪いとったもののほうがよりよく見える。ある意味では、他人を高く評価しすぎているのだが、心の中は懐疑心・冷笑・羨望・嫉妬で一杯である。

・貯蓄的構え
 前記の二つのタイプとは異なり、外界から得られる新しいものを信用せず、自分の周りに城壁を張りめぐらせ、貯蓄・倹約を行動原理とし、所有物が出ていってしまう消費行動を敵視する。愛情においてもそれを財産とみなす傾向が顕著であり、愛を与えるよりも「愛するもの所有すること」を重視する。彼らは、記憶に対しても「すでに自分が所有しているもの」として偏重し、思い出をすばらしいものとして受けることもある。知識も、ただ蓄えるだけで生産的思考には結びつかない。几帳面だが、事物をすぐにあるべき場所に置き直さないと気がすまない-これは、彼らにとっては外界は自分の城に侵入する脅威的なものであり、几帳面さが、外界のあるべき秩序に戻してコントロールすることを意味するからである。きれい好きも、外界と接触した跡を払拭してしまおうとする要求からくるものである。自分の境界に入るものはすべて危険で不潔なものなのだ。「外界が侵入してくる」と感じられると、彼らは、拒絶や頑固さで対抗する。彼らにとっては、自分の所有物やエネルギーは限られており、それは用いれば消失するものであって補給されることがない。彼らは死や破壊の脅威を生々しく感じており、「新しいものはない」状況こそ安全なのである。他人に対しては、完全に遠ざけるか、支配下に置くかのいずれかである。

・市場的構え
 現代という時代において初めて有効な構えとして広まったもの。フロムによれば、現代の資本主義社会が使用価値よりも交換価値を強調するために、人間も自分自身を商品のように扱い、自分の価値とはすなわち市場における交換価値であると考える。パーソナリティも売りに出される商品である。彼らは、自分のパーソナリティを、それぞれが経済活動を行う市場において高い価値を付けられるように自己演出する。自分の能力という使用価値だけではなく、そのパーソナリティが魅力的に映らなければならないので、どのようなパーソナリティに需要があるのかを知って、流行にのらなければならない。この知識は、全教育過程において与えられるが、その範囲だけでは、「社会から受けられる一般的特性」を獲得させるにすぎず、彼らは成功するための模範となるような成功者の情報をマスメディアに求める。フロムは、現代においてはこのような「需要」を最も人々に知らせるのは映画スターであるとしている。スターが現代の生のモデルになるのである。

 自分に対する評価は、市場によってどれほどの価値が認められ、どれほどの成功を収めるのか、ということに尽き、自己評価は市場によって左右されることになる。このことは絶大な不安定感を及ぼす。

 後に述べる生産的な個人は自分の「自己とは行為である」という感覚を持ち、自分のアイデンティティーを自らの体験から引き出す。しかし、市場的構えにおいては、自分自身の価値を決める力は、彼自身によるものではなく、気まぐれな市場からくるものであり、彼は、自分の力を商品として自分から切り離し他人にとって利用可能なものとするために、アイデンティティーが不確実となる。アイデンティティーは、自己の行為によるのではなく、他人が求めるものを提供しているかどうかによるからである。彼らは他人を喜ばせることに夢中であり、人間関係は表面的なものになる。その反動として、個人的な愛のうちに深い感情体験を期待するようになるが、市場的構えの人間の空虚さを癒すことは不可能である。

 彼らにとっては、思考とは、事物を巧みにコントロールすることを目的とするための把握能力である。事物の表面的な事しか知らず、知識も商品なので、あらゆるものには等しく興味が持たれ、ただ比較や量的測定のみが強調され、「考える」ということは放棄される。安定した人間関係を作り上げることはなく、「態度をいつでも変えることができる」ということが重視される。その都度「いちばんよく売れる」ものが個人の中で強調される。

生産的構え

 生産的構えとは、フロムによれば、人間の可能性の発展を目的とし、その目的に他の活動が従事する性格である。つまりこれは理想的な成熟した性格なのである。それは、フロイトの性器的性格の記述にとどまらず、他人・自己・事物に対する関係の仕方を規定するものである。彼は、自分を行為者として体験しており、自己の力が自分から不分離で一体であると感じている。

 非生産的構えは不安に対する反応にすぎない。生産的構えにおいては、彼らは、世界をあるがままに見ながらも、それに生命を吹き込み、自分と社会との関係を作り出すことができる。生産性構えは自らの自我の生産を最重要課題とする。自我を生み出すためには生産的活動が必要なのである。生産的な愛とは、相手に対し注意を払い、相手に責任を持つことである。支配や所有ではなく、相手に対する知識と愛情を持ち、相手を成長させるものである。フロムは、母親の子供に対する愛情を例に挙げている。

 生産的思考とは、対象を自らから切り離し、死んだ客体として関心を持つ、というものではない。それは対象からも影響を受け、対象と深く混ざり合う、という特徴をもっている。それは、対象の一面だけを見ようとするものではなく、対象の総体を見ようとする態度である。また、対象のみならず、自分自身に対しても、よりよく知ろうとする努力を含むものである。

 だが、エーリッヒ・フロムの言う生産的構えは、彼個人の価値観がや哲学が色濃く、パーソナリティ類型の一つとして位置づけることは難しい。

 フロムは、フロイトの時代には患者は具体的な「症状」に悩み、その除去求めて精神分析を受けにきた、と述べている。しかし、フロムの臨床経験からは1930年ごろから、そのような具体的症状に悩む患者はほとんど訪れなくなったという。精神分析の門をたたくのは、1940年ごろからは、「仕事に満足できない」「対人関係がうまく行かない」などの、人生の中での満たされないの満足感をの解決を求めてやってくる人々がほとんどとなった、とフロムはしている。これを、フロムは過去フランスの言論界で流行した「世紀病」「豊かさの中の不満」というような比喩的な表現を当てている。アメリカで精神分析的な本が氾濫し、大衆化されるにつけ、今や人生での指針を求める人までがクリニックの門を叩くようになったのである。境界例の一つの特徴とされる「空虚感」も、前世紀においては、おそらく症状とはみなされなかっただろう。