回避性人格障害 | 芸術への可能性

芸術の世界で願望を満たす繊細な人たち

 傷つきやすいこのタイプの人たちは、他人に煩わされず、知的活動やファンタジーとともにあるときに自由を発見します。

 彼らは、人間関係に強いあこがれを持っています。ただし、外で活発な社交を繰り広げるよりも、内面的な活動の方が性に合います。さすがに一人の世界でなら、傷つけられる心配はありません。そして、元来の他人への興味やあこがれを空想の世界でなら満たします。

 傷つきやすい繊細さを持ち、内面的な活動が活発で、社交よりも自分の世界に浸りたがる-これだけでも、細やかな芸術家タイプのイメージが浮かんできます。

 実は、ミロンは、この傾向が極端になっていないのならば、つまり一つの「性格」の範囲にとどまっているのならば、このタイプこそ、芸術方面に最も適性を持つタイプとして栄冠を与えています。

ショパンは回避性性格者だった?

 私がもしかしたらこのタイプだったのではないかと真っ先に思いつくのは「ピアノの詩人」ショパンです。コンサートホールでの演奏を嫌い、自作自演の場は人数の少ないサロンに限られていました。同時代人の作曲家リストはショパンを崇拝していましたが、その人物に関しては「決して本心を見せようとしないガラスの男」と評していました。長年同棲生活を送ったジョルジュ・サンドは「小さな受難者」と呼びました。ジョルジュ・サンドが書いた小説に自分をモデルにした登場人物がいると受け取り、ひどく傷ついて同棲生活を解消、二度と会おうとしませんでした。「きれいな曲ですね」と褒められたのに「きれいなだけの音楽ですか?」と涙を浮かべて立ち去ってしまった、という嘘か本当かわからないようなエピソードもあります。

条件が整えば一般社会でやってゆける

 いや、別にショパンにならなくてもよいのです。ミロンは、よほどのことがなければ、回避性性格者は社会人として十分にやっていけるのであり、その性格を問題視することは不必要だとしています。

 ミロンに言わせれば、確かにこの人たちは、拒否される可能性に対するめざとさや、全般的な恥ずかしがりや自己評価の感覚の低さやどこか内気でもじもじする人たちであるかもしれません。それでも、彼らのライフスタイルに合致するような機能や環境設定に置かれたときに、彼らはその社会的そして職業上の責任をなかなかの有能さを持ってやりぬくことができる、としています。

 そのような環境とは、情緒的に安全で落ち着いていられる環境です。感じやすい人たちは彼らの世界が小さく限定され、そこに知っている人たちしかいないときにその力を発揮します。例えば数少ない大切な家族と一緒にいたり友人と一緒にんたりすると、感じやすい人たちの創造力や探求精神はとどまるところを知りません。感じやすい人たちは彼らの頭脳や感情やファンタジーを発揮し、自由を満喫することができます。

対人関係用の小道具を発展させる人たち

 私は、もう少し身近な例を付け加えたいです。

 回避性性格者が、傷つくのが怖くて対人関係から一歩引きがちであるということは、マイナスばかりではありません。彼らは、堂々と相手に接近して自分自身をアピールしようとしたりするよりも、何か代理となるようなものを媒介にして相手と関係を持とうとするとういう技を発達させることが多いです。つまり、このタイプは、詩や小説やイラストというような自分の代理物・エージェントを、まず先遣隊として近づきたい相手に差し出してみる、という形で接近することができます。こうすると、彼らはずっと大胆に振る舞うことができ、彼らの苦手とする他人に接近する能力は、ずっと高まります。心をこめて秘かなプレゼントとして描いたイラストが相手から「あまりうまくないな、これ」と言われたとしても、それはイラストの上手い下手が言われただけであって、自分が否定されたわけではないからです。「お前なんか、嫌いだ」と言われるよりは、ずっとダメージは小さくてすみます。

 そして、最初は苦手な対人接近を助けるための小道具であったものが、いつしかその人の得意技になっていることがあります。相手に受け入れられようとイラストに励んでいる内に、どこかに投稿したイラストが採用されるかもしれません。相手との距離を一定に保つための小道具であった将棋や囲碁の達人になっているかもしれません。彼らは、およそ対人関係の媒介となり得る活動のスペシャリストになっているかもしれません。最初はそれらは、苦手な対人関係をより容易にするためのかけがえのない通路でした。だが、数少ないかけがえのない手段であるからこそ彼らはそこに打ち込むことができます。